渡辺哲信(わたなべてっしん)は、明治7年(1874)9月12日、三原市西町の浄土真宗本願寺派浄念寺に生まれました。幼い頃から運動神経のよい子で、それが後にシルクロード探検につながったといわれています。西本願寺第22世大谷光瑞門主の側近となり、ヨーロッパ留学を経て、明治35年から37年(1902~1904)第一次大谷探検隊の一員として堀賢雄(ほりますお)と共に日本で初めてタクラマカン砂漠を横断しました。2014年にキジル千仏洞、スバシ故城などからなる「シルクロードの始点ー天山回廊の道路網」が世界遺産となりましたが、そのキジル千仏洞を世界で初めて調査したのが哲信です。
第13世住職 昭和32年3月17日84才にて示寂。
・浄土真宗本願寺派第22大門主、大谷光瑞が主宰した日本で初めての中央アジア探検隊です。
・1902~04年、08~09年、10~14年の3次にわたり、ガンダーラ、インド、西城、中国に至るシルクロードの仏教遺跡を調査しました。
・仏教伝来の道を探るため組織された探検隊であり、最初の派遣から、100年以上を経たいま、その成果の再検討が進められています。
画像左:菩薩頭部(クチャ・クムトラ石窟)7~8世紀 東京国立博物館蔵
画像右:仏説法図部分(クチャ・キジル石窟)7世紀 東京国立博物館蔵
・仏教伝来の経路と仏教遺跡の調査
・異教徒によって仏教が被った圧迫の状況の調査
・仏教遺跡に残る経典・仏具などの収集
・中央アジアの地理・地質・気象の調査
画像:舎利容器
ろくろで成形した蓋と身に麻布を貼り,下地を整えて彩色した大型の舎利容器で,ストゥーパ内部から発掘されたものと考えられています。
明治7年 | 三原市西町浄念寺に生まれる。 |
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明治23年(16才) | 京都文学寮入学 |
明治29年(22才) | インド・パレスチナを経由してロシア・ぺテルスブルクに留学 |
明治32年(25才) | 大谷光瑞氏に同行してイギリスに留学 |
明治35年(28才) | ロンドンから大谷光瑞・堀賢雄らとともに第一次中央アジア(シルクロード)探検出発 |
明治36年(29才) | タクラマカン砂漠を縦断後、キジル千仏洞を調査 |
明治43年(36才) | 大谷籌子裏方と九条武子に同行してヨーロッパへ(ナポリ・エジプト・ローマ・ロンドンなど) 帰国後、築地別院輪番となる。 |
大正5年(42才) | 「報知新聞」北京特派員となり、その後、北京「順天時報」社長に就任 英字新聞「North.China Standard」も刊行 |
昭和5年(56才) | 「順天時報」廃刊し、帰国(東京在住) |
昭和12年(63才) | 「西城旅行 日記」が公となる |
昭和18年(69才) | 浄念寺へ帰山 |
昭和32年(84才) | 浄念寺にて没 瑞香院釈哲信 |
武内俊子は、明治38年9月10日、三原市西町浄念寺に生まれました。武内俊子は、子供の頃から詩を書くのが好きでした。それがきっかけで、童謡詩人の道を歩むようになりました。そして、誰もが知っている「カモメの水兵さん」、「船頭さん」など多くの人に親しまれる作品を108作も作りました。昭和20年に、東京都世田谷の三軒茶屋で41歳という若さで亡くなりました。武内俊子の出身地である三原市の宮浦公園には、「かもめの水兵さん」の童謡碑が建てられています。そして、今も、多くの人たちの心の中に、武内俊子の詩は生き続けています。
昭和8年、俊子は、叔父の足利瑞義が開教総長としてハワイへ旅立つのを横浜の波止場まで見送りに行きました。その時、桟橋一帯に、たくさんの白いかもめが飛び回り、夕日に映えてとてもきれいだったという印象を持ちました。その強い印象が「かもめの水兵さん」の詩になりました。そして、すぐに電話で作曲家の川村光陽に詩を伝え、即座に曲ができあがり、童謡「かもめの水兵さん」が誕生しました。昭和12年にレコード化され、現在に至るまで歌い続けられ、多くの人たちに親しまれています。
明治38年 | 広島県三原市西町浄念寺にて誕生。 |
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明治45年 | 広島市段原小学校入学 |
大正8年 | 済美小学校卒業 |
大正13年 | 三原市に転居 |
大正14年 | 上京 武内邦次郎と結婚 |
昭和8年 | 叔父 足利瑞義を横浜の波止場で見送る 詩集「風」自費出版 |
昭和12年 | 「かもめの水兵さん」レコード化 |
昭和13年 | 「赤い帽子白い帽子」レコード化 |
昭和16年 | 「船頭さん」レコード化 |
昭和19年 | 発病 |
昭和20年 | 東京世田谷の三軒茶屋にて病没 享年41歳 |
昭和36年 | 鈴木出版(東京浅草蔵前)より武内俊子童謡集出版 |